佐賀藩は肥前藩とも言い、長崎の警護を担当していたことから外国の情報が入手しやすく、国防に危機感を持った10代藩主鍋島直正侯の命により研究所である「精錬方」が設立されました。日本赤十字を設立することとなる佐野常民を中心に、からくり儀右衛門こと田中久重(東芝の創業者の一人)ら、技術者を全国から招聘しました。佐賀藩は35.7万石で、全国の石高が3237万石(明治の最終統計なので直接比較は良くないですが)ですから、当時の日本のGDPの約100分の1です。俗に、藩の数は300諸侯といわれています。江戸時代は財政が独立で、地方分権色が強かったことがわかります(将軍家は全国の石高の半分を持った巨大な藩とみなすこともできる)。
https://www.city.saga.lg.jp/main/3855.html
https://www.city.saga.lg.jp/site_files/image/usefiles/imagefiles/s25559_20101018072310.JPG
国立情報学研究所がwebに載せている絵(後世に描かれたもの)が小規模モデルを中心に試作を進める雰囲気をよく表しています。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/169368
反射炉によって作った鉄で蒸気機関の鋳造に成功し、模型機関車や模型蒸気船、さらには戊辰戦争で使われた大砲を作っています。本の簡単な略図や説明と長崎での現物の見学から数年で完成させたわけですから、たいへん優れた技術力と言えるでしょう。
蒸気船の国産第一号は薩摩藩の雲行丸と言われていますが、薩摩で作った蒸気機関は不良で(蒸気漏れで出力が設計の20%)、実用になったのは佐賀藩の凌風丸が最初のようです。どちらも外輪船です。
https://www.sankei.com/article/20170908-TNFA7OCRPZIFROH3ICG6UGLATU/
佐賀藩も明治維新に参加しましたが、一つの藩では財力に限界があるため、中央集権が必要だという認識があったのではないでしょうか。肥前藩は薩長土肥の一つになりましたが、政治的リーダーの江藤新平は政争に負けて札幌にゆかりのある島義勇と佐賀の乱(明治7年)を起こし粛清されてしまいました。周辺の脅威に対応する国力キャッチアップのための「開発独裁」が必要な時期だったので仕方ない面もありますが、旧幕の高級官僚や薩摩藩の一部など他にも過酷な運命をたどった人たちがいます。一方、精錬方の技術者は中央で活躍したのだと想像します。
現在関連施設で現地に残っているのは、理化学ガラス器具から派生した工芸品を作る少人数のビードロ工場だけのようです。職人を募集中です。長く続いてほしいです。
https://www.hizen-vidro.co.jp/history.html
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